書評家
石井千湖
韓国の詩人キム・ソヨンの「『積読』と『積読の対義語』」というエッセイを読んだら〈本を購入して積んでおくだけで読まないことを、日本では「積ん読」と呼ぶが、読み終えた本を捨てるわたしみたいな人はなんと呼べばいいのだろうか。たぶん「積ん読の対義語」とでも言うべき言葉だろう。読むか読まないかではなく、積むか積まないかが基準であるならばだが〉と書かれていた。
韓国には「積ん読」にあたる言葉がないのかもしれない。日本では昔から使われている。たとえば1906年発行の『俚諺辞典』(幸田露伴閲、熊代彦太郎編)に「積読法」という項目があって、〈書籍を贖ひて讀まず徒に積み置くをいふ〉と説明されている。辞書に載っているくらいだから、当時もそれなりに知られている言葉だったのだろう。日本は100年以上も徒に、つまりむやみやたらに、本を積み続けてきた者たちの国なのだ。「積ん読」には読めもしないのにこんなに買って、という自虐的なユーモアや、うっすらとした罪悪感がにじんでいる。なぜわたしたちは本を積んでしまうのか。
「積む」は、すでに置いてあるものの上に重ねて物を置くことを意味する他動詞だ。物事を重ねて行ったり、お金を貯めるときにも用いる。オタクがアイドルに会いたくて何枚も同じCDを買う行為も「積む」と表現する。
「積ん読」は未読の蔵書がたまっている状態であり、実際に本が重ねて置かれているかどうかは問題ではない。読むつもりで手に入れて読んでいない本は、本棚の中にきちんと収まっていたとしても「積ん読」と呼ぶ。「積ん読」は現物の本というより、「読みたい」という欲望が積み重なったものだと思う。
わたしは新刊の書評を生業にしている「積ん読者」だ。本を横向きにして収納するタワー型の棚2台を「積ん読」専用にしている。おそらく100冊くらいは入るのではないだろうか。棚は2台とも常に埋まっていて、毎日読んでも読んでも本がなくならない。
その棚の外にも未読本はあるが、できるかぎり床には積まないようにしている。東日本大震災のときに本が雪崩れたからだ。草森紳一の『随筆 本が崩れる』を思い出した。草森氏は廊下に積んでいた本が崩れてドアが開かなくなり、風呂場に閉じ込められたことがあるという。もしまた地震が起こって、本のせいで身動きがとれなくなったら死ぬかもしれない。本は好きだが、本と心中したくはない。そう考えて、棚からあふれた本を定期的に手放すようになったのだ。
安全のために本は増やしたくないし、かなり思い切って整理している。それでも「積ん読」は減らない。本を読んでいると別の本を読みたくなる。
前述したキム・ソヨンの「積ん読」エッセイが入っている『奥歯を嚙みしめる 詩が生まれるとき』は、あちらこちらに別の本へつながる扉が開いている本だ。たとえば「得る」は、アメリカの作家レベッカ・ソルニットの『ウォークス──歩くことの精神史』の引用ではじまる。自分の言いたいことが簡潔に表現されていて胸が高鳴る文章なのだそうだ。キム・ソヨンの言いたいことやこの本を持ち歩いていたときのエピソードを読むと『ウォークス』を読みたくなる。
しかも『ウォークス』はわたしの家に既にあるのだ。ソルニットの『説教したがる男たち』を読んですぐ買った。『説教したがる男たち』は、女を無知と決めつける男が上から目線で説明することを意味する「マンスプレインニング」という造語が広がるきっかけになったエッセイ集だ。マンスプレイニング男がソルニットの本を彼女が書いたとは知らずにすすめるくだりがすごくおかしくて、代表作の『ウォークス』もぜひとも読まねばと思った。かれこれ積んで6年が経つ。いつか絶対に読むと決めているので、「積ん読」専用タワーではなく、メインの本棚の良い場所に置いている。
まだ読んでいないにもかかわらず、『ウォークス』のおかげで増えた本もある。マーサ・グレアムの『血の記憶』。アメリカ・モダン・ダンスの始祖とも言われる舞踏家の自伝だ。わたしはダンス動画をよく見るのだが、自分では踊ったことがないし、運動音痴なので適性もなさそうだし、好きなダンスのどこがいいのか分析する知識もない。『ウォークス』の内容紹介を思い出して、歩くことの精神史があるなら、いろんな資料を集めて踊ることの精神史について調べたら面白そうだなとひらめいたのである。マーサ・グレアムの本を1冊目に選んだのは、大好きなBTSの『ブラック・スワン』という曲にインスピレーションを与えたから。他にもダンスの歴史や批評の本を買ったが積みっぱなしだ。かれこれ4年。『血の記憶』は宇野亞喜良が装幀を手掛けた美しい本なのでいずれは読みたい。読むはず。
亀の歩みで読み進めている「積ん読」本もある。フランスの批評家ロラン・バルトの『小説の準備』。韓国のセウォル号沈没事故とキャンドル革命を背景にしたファン・ジョンウンの小説『ディディの傘』で『小説の準備』が引用されていて、その引用部分があまりにも良かったので読みたくなった。『小説の準備』は「ロラン・バルト講義集成」というシリーズの第3巻なのだが、新刊書店に在庫はなく、古書価も値上がりしていて、版元に3冊セットのみ在庫があった。2万350円という値段を見て慄いたが買った。
ロラン・バルトは『零度のエクリチュール』しか読んだことがなく、いきなり晩年の著作である『小説の準備』に挑んでも挫折するかもしれない。だから石川美子の『ロラン・バルト 言語を愛し恐れつづけた批評家』という入門書を先に読んだ。この入門書も何年か積んでいた本だ。新たに「積ん読」したおかげで、古い「積ん読」が1冊消えた。トータルの冊数は減ってないけれども。
ファン・ジョンウンは1年かけて『小説の準備』を読んだ。自分も読むのに1年かかってもいいと思えば気が楽だ。前に読んだところの内容を忘れないように読書メモをつけている。冒頭のほうでバルトの『喪の日記』に興味がわいてしまった。4,840円。せめて『小説の準備』を読了してから買いたい。
わたしは超零細個人事業主である。2LDKのマンション住まいだし、収入も乏しい。本は読むためのもので置物ではない。積んでおくのは後ろめたい。お金を無駄にしているみたいで。
罪の意識があるのに、「積ん読」はやめられない。本を読める時間はかぎられていて、世の中には心惹かれる本が多すぎる。いま家に積んでいる本も、まだ出合っていない本も、すべて読むことは不可能だ。でも、読まないまま終わったとしても、きっと何かが残る。本を選んだときの自分の一部が「積ん読」に積もっている。埃のように。
そして1冊の本に対価を支払ったなら、著者が次の本を書ける可能性を開き、一時的かもしれないが本の居場所をつくったとは言えるのだ。
いしい・ちこ 1973年佐賀県生れ。大学卒業後、書店員を経て、現在は書評とインタビューを中心に活動。インターネットメディア「ポリタスTV」の「石井千湖の沈思読考」でも本を紹介している。著書に『文豪たちの友情』(新潮文庫)、『名著のツボ 賢人たちが推す!最強ブックガイド』(文藝春秋)など。