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長い読書 31——『裁判』(上)◎島田潤一郎

『裁判』(上)

島田潤一郎

 伊藤整の『日本文壇史』(全18巻・講談社文芸文庫)という本のおもしろさは、たとえるなら、三国志演義や水滸伝のおもしろさで、二葉亭四迷や、幸田露伴、岩野泡鳴、島崎藤村、国木田独歩らが文学にむかって邁進していくさまが、中国の英雄、悪漢たちが大陸で躍動している姿と、ぼくのなかでどことなく重なる。続きが気になって、ぐいぐい読み進めてしまう、そんなおもしろさなのである。

 勉強の本じゃないよ、ほんといいんだよ、と何人かの文学好きに勧めたが、彼らはだれひとりとして『日本文壇史』を読まなかった。おそらく、18巻という長さと、受験勉強を連想させるタイトルが、友人たちをこの大作から遠ざけたのだ。

 でも、どうしても読んでほしいし、伊藤整のすばらしさを知ってほしいから、ある日、そのダイジェスト版ともいえる『近代日本の文学史』を自社で復刊してみたらどうか、と思いついた。

 『近代日本の文学史』は1958年にカッパ・ブックスの1冊として刊行された本で、『日本文壇史』がどちらかというと文学好きの読者に向けて書かれた作品だとすれば、こちらは一般読者向けの本である。

 当時、伊藤整はたいへんな流行作家で、一般読者と文学との架け橋のような原稿をたくさん書いていて、『近代日本の文学史』は『文学入門』(同じく、カッパ・ブックス)とならぶ、その方面のすぐれた仕事のひとつである。

 内容は薄いどころか、みっちり詰まり過ぎるくらいに詰まっている。

 さまざまな人物を物語的につないでいくおもしろさも、伊藤整特有の歯切れのよい語り口も健在で、文学史を三国志演義や水滸伝のように、あるいは大河ドラマのように読むおもしろさも、多少質は違うかもしれないが、しっかりと残っている。

 問題は、この本を復刊させてもらえるかどうか、だった。

 このころ、夏葉社は創業4年目で、版元としての知名度はまだまだだった。伊藤整のご遺族はおそらく、ぼくの出版社の名前を知らないだろうと思った。

 2012年の1月、ぼくは、著作権継承者の伊藤礼先生に、『日本文壇史』が好きなこと、そしてその魅力を伝えるために、『近代日本の文学史』を50年ぶりに復刊させてほしい旨を長々と手紙に書いた。

 礼先生からの最初のお返事がどのようなものだったか、残念ながら記憶にはない。

 はっきりと覚えているのは、お昼ごろに先生のご自宅に伺う約束をしたことで、その指定の時間に玄関のチャイムをおしても、だれも出てこなかったということだ。

 門扉の前で途方に暮れていると、颯爽と1台のスポーツ用自転車がやってきて、サイクリング・ヘルメットをかぶった目の大きな男性が「わたしが伊藤礼です」といった。

 礼先生はぼくが『日本文壇史』を愛読していることをとてもよろこんでいた。

 自宅にあがらせていただくと、講談社文芸文庫版の『日本文壇史』の別巻、『日本文壇史総索引』を10冊ほどもってきて、これが発売された当時、この索引だけの巻は将来必ず値上がりするに違いないと踏んで、たくさん買い込んだのだ、と話された。けれど、全然値上がりしないから、あなたに差しあげよう、といって、そのうちの5冊をテーブルの上に置いた。

 真剣さとユーモアがないまぜになった話しぶりは、礼先生『狸ビール』や『こぐこぐ自転車』の文章を思わせた。

 先生はぼくが伊藤整だけでなく、ご自身の読者であることも知ると、『こぐこぐ自転車』はどの版で読んだのか、と聞かれた。ぼくが、平凡社ライブラリーだとこたえると、わたしは単行本の装丁のほうが好きなのだといって、今度は、単行本の『こぐこぐ自転車』をあなたに差し上げます、とおっしゃった。

 肝心の『近代日本の文学史』の復刊にかんしても、一片の迷いもないといった感じで承諾してくださった。父の仕事をあなたのような若いひとが評価してくれるのはとてもうれしい。そのようなことを2、3度話された。

 礼先生と二人きりで1時間ばかり話せたこと、そしてなにより、『近代日本の文学史』の復刊の許諾をいただけたことに、小躍りせんばかりによろこんだ。

 その翌々日、事務所に1通のハガキが届いた。それは礼先生からのもので、大きな字で「ボールペンをお忘れになりました。保存しておきます。ついでの折、お返し申します」と書いてあった。

 この時点で、ぼくは完全に礼先生のファンになったのだった。

 『近代日本の文学史』の復刊は難航した。昭和33年に事実だろうとされていたことと、50年後に事実とされていることのあいだには、若干の違いがあり、その「若干」を校正者とひとつひとつ拾った。

 本ができあがるとさっそく、礼先生のご自宅に届けた。

しまだ・じゅんいちろう 1976年、高知県生まれ。東京育ち。日本大学商学部会計学科卒業。アルバイトや派遣社員をしながらヨーロッパとアフリカを旅する。小説家を目指していたが挫折。2009年9月、夏葉社起業。著書に『父と子の絆』(アルテスパブリッシング)などがある。

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