ワタシは「ユンの家」の週替わりランチを制覇する
加藤ジャンプ
東京の多摩地域随一の商業都市、町田市。その市境に近い横浜市青葉区奈良町。ここに「韓国カフェ ユンの家」がある。一見、普通の民家のようだが、幟や立て看板があるから迷うことはない。営業日は、土、日、月、火の週4日、おいしいランチを提供している(土曜日は主に語学教室)。最寄駅は小田急線の玉川学園前駅だが、歩けば10分以上かかる。交通の便は決して良くないが、いつもお客さんでにぎわっている。すこし離れたところから車で来る人も少なくないし、旨い店の証拠に、タクシーの運転手さんもよくここで昼ごはんを食べている。
店を営むのは韓国・釜山出身の尹英姫さんだ。2020年に今の店からすこし離れた町田市の成瀬という土地で「ユンの家」を開業した。その後、23年の秋に現在の場所に移転した。
この引っ越しにもいろんな話があって……。
「1回で書き切れないと思うから、まず今回は第1章ということにしてしまったりして」
と、スーパー流暢な日本語で冗談を言ってユンさんは笑う。来日して20年以上になるとはいうが、たいていの人はここまでマスターするのに来日100年はかかりそうな気がする。ここまで日本語が上手ということは、若い頃からずっと日本語を勉強していたのかというと、そうではない。
「若いころ、ずっと外国を旅してたんですよ」
──バックパッカーだったんですか?
「そうなんです。その頃、韓国の若いひとの間で、海外を旅することがすごく流行したんですよね」
──そのとき日本へ来て日本語を学びはじめたとか?
「いや、なんていうのかな、若い頃は遠いところのほうが興味があるものじゃないですか」
──そうですよね、ぼくも、なんかアジアを飛び越して、南極とか行きたかったくらいです(笑)。
「そう(笑)。それで、やはりヨーロッパとかに気持ちが向いていて。お金がたまったら旅に出るというライフスタイルでした」
同世代だからよくわかる。90年代に私もちょこちょこ海外に行ったけれど、なんというか手練れのバックパッカーに遭遇したことが何度かあった。何はどこのスーパーがいいか、どこの本屋が絵本のラインナップがいいか、どこの酒場がいちばんツマミがうまいか……おおよそ、ローカルの人にしかわからないようなことをいつの間にか吸収している人たちだ。そういう人たちに共通していたのが、ユンさんも言うように、
「いわゆる危ない場所みたいなところには近づかないですよ、冒険がしたいんじゃなくて、そこにある、普通の空気とか暮らしを体験したいのね」
いや、ほんとうにそう。オレはニューヨークの裏通りで銃を突きつけられたけど日本語でのりきった……みたいなマッチョな自慢をする人は、当時のバックパッカーのなかにちょくちょく存在したけれど、それはユンさんみたいにローカルに溶け込むのとは根本的に違う。ユンさんのような旅行者は、好奇心旺盛で行動的だが無謀ではない。そういう人だから、韓国の新聞が実施した旅行エッセーの懸賞で2位になって商品のエアチケットも入手したなんてこともあった。
「それをきっかけにオーストラリアにも行きました」
そんな具合に、20代のユンさんは、あちこち海外を見聞してまわっていたが、なかなか日本とは縁がなかった。それが、
「弟が大学で日本文学を専攻してたんですよ。だから弟の部屋の本棚には、村上春樹とか日本の小説がいっぱいあったりして。その弟が交換留学生として九州の大学へ行ったんですが、母が私に様子を見てきてほしいというんですよ。それが初めての日本でした。韓国のオカズみたいなものも持って九州に行きました」
〈弟さんに持っていったのもこんなオカズだったのだろうか……ユンさんの料理はほんとうに旨い。たとえばチャプチェ。春雨を炒めた韓国料理で、日本でもお馴染みの1品だ。どちらかというと日本でお目にかかるチャプチェはかなり濃いめの味付けでねっちりとした歯触り、という印象がある(あくまで私の経験上だけれど)。でも、ユンさんのチャプチェは、ちょっと違う。そこが旨い。春雨はもちもち感はありつつ、さらりとした歯触り。コクはあるものの、口当たりはさっぱりしていて爽やかで、しつこさが全然無い。それでいて、ツマミにもオカズにもなれる、絶妙な塩加減。これはハマる〉
九州へ行ったユンさん、宿泊はユースホステルだった。いろんな国からやって来た旅行者たちが集まるその場所で出会いがあった。
「会社の休みで旅行に来ていた日本人の男性がいたんです」
──なんか、予感がしますね。
「そう(笑)。なんとなく、こちらをちらちら見ていて、しばらくすると韓国語で挨拶をして」
──その出会い……。
「弟は日本語ができたから、すぐに盛り上がってね。それが、今の夫です」
1979年のことだった。韓国と日本を行き来して交際をかさね、2001年釜山で結婚式をあげると、ユンさんは夫と日本で暮らしはじめた。まだ日本語は今にくらべて拙かったから、はじめは暮らしていた町田市が主催する日本語レッスンをうけた。
「国際交流を目的にした場所があって、そこに通ったんです。それが、とても楽しくて。母語が中国語の人やポルトガル語の人もいればベトナム語の人や英語の人もいて、もうね、それぞれの文化がふれあうっていうんでしょうか、すごく楽しいんですよ。それまで私が海外旅行をしていたときに経験した国際交流そのものだったんです」
これまで何度も言ってきたが、万博みたいな巨大イベントをやるより、こういうことを各地でやっていくほうが、よほど国際交流につながる。
さてユンさん、ここで現在の仕事につながる発見があった。
「それぞれのお国のお料理を披露するお料理会みたいなことをやったんです。ただ話そう、交流しようっていっても、国籍以前に、いろんな性格があるから、けっこうな壁がありますよね。でも、食事をしてるとお話ってできるんですよ。人と人がつながるには、食事はいちばんのきっかけなんだな、って」
私の暮らす地域のコミュニティセンターのような場の掲示板では、
「いきいきおしゃべりタイム」
「長寿体操」
「みんなで歌おう」
みたいなチラシが並んでいるのをよく見かける。これはこれで良いのだろうが、みんなに混じってのびのび体操できる人たちや、「じゃ、ご一緒に」と言われて一心不乱に歌えるメンタリティの持ち主よりも、そういう状況に馴染めない、あるいは、そういう状況そのものが苦手な人ほど、交流の場が必要な気がする。そんな人にとって食事はいちばんハードルが低いし、楽しみにつながるのではないだろうか。
「実際に、そうやって食事をとると、『おいしい』って言うだけで、言葉を発するきっかけになって、それまで黙ってた人もおしゃべりできたりするんです。ほんとうに食事ってすごい」
〈「ユンの家」のメインとなるメニューは週替わりのランチだ。その週は冷麺のランチ。冷麺にサラダ、ヤンニョムチキン、キンパ、キムチがついている。冷麺は、春だというのに蒸し暑い近頃の天気にはぴったり。氷でしっかり冷たくしてあって、コシのある麺がことさらシャキッとした歯触りで旨い。汁もあっさりと仕上げられ、すいすいいける。こういう、見た目も味わいも健康的で、なおかつボリュームもあるのは嬉しい〉
食が国境をこえたコミュニケーションのきっかけになると気づいたユンさんだったが、いきなりお店を開業したわけではない。とはいえ、話を聞いていると、その道は、まっすぐ今につながっていたような感じがする。そもそも旅が好きなのも、
「観光地を巡ったりする旅行もいいと思いますが、私は、やっぱり、その土地に馴染んで暮らしてみたい。今でいう滞在型?あの寺、あの展望台、といって見てまわるんじゃなくて、その土地の人たちが集まる場所ってあるじゃないですか。そういう場所にまぜてもらってお話しして、その土地の人たちが好きなものを食べたり。そこで、人と知り合うのが、私にとって旅のたのしさなんですよね」
と、言うユンさん。コミュニケーションとふれあいの大切さについては、ずっとブレずに向き合ってきた。大学では教育学を専攻し、もともと大の本好きだったのも大きいのかもしれない、日本語もどんどんうまくなり、専業主婦として過ごすかたわら、ボランティアで、市の言語スタッフとして活動もした。
「海外から来た人が料理をふるまって、自由にいろんな人たちが来て交流できる場ってないかな、って思ったんですよね。純粋に楽しいということもあるし、たとえば、ひきこもってしまったりしたとき、気軽に、いろんな背景をもつ人とふれあえるのって、なにかのきっかけにもなると思うんです。それで、そういうことをやっているところってないものかっていろんな人に聞いたり調べたりしたんですが」
大阪は箕面市、箕面市立多文化交流センターがおこなっている活動で、外国人の市民が変わるがわるシェフを務める場所があることを知った。「コムカフェ」といってすでに10年以上活動している。主婦や学生たちが日替わりでシェフをしている。
「あるんだ!って思って。それで、仲間と古民家を借りてやったんですが、いざやるとなったら、あちこち許可をとったり手続きがいっぱいあるし、なかなか大変。よし、これは、自分でやろう、って」
店をひらくにあたってユンさんは考えた。
「家のようなお店にしようって。来る人が『ただいま』って言って店に入ってくるような。ナンバーワンじゃなくてオンリーワンを目指して、お料理が上手じゃなくて好きな主婦がやっていて、そこにお邪魔するような感じの場所にしようと思ったんですよね」
お話を聞いているとき脳裏に流れたのは、あの歌だった。それも、子どもたちが保育園で歌っていたバージョンだ。そこからユンさんは自分でロードマップを描いた。まずは、体力をつけないといけない。
「さっそく運動を始めました。それから、流行っている店を知らないといけないと思ったんですよね」
──繁盛店ということですか
「厨房も接客も、のんびりしているところだと勉強にならないですよね。それで、このあたりで一番人気があるっていう商業ビルのことを聞いて。接客とかがすごく厳しいという。でもそのビルのお店で接客している人たちみんな若いんですよ、私、採用される?」
ユンさんは笑って言うが、いやいや、ユンさんとても元気だし若い。そこで韓国料理店に採用されたユンさんだったが、
「忙しいし、わからないことだらけですっごい怒られました。でもね、厨房に台湾の方がいて、その人がほんとうに優しくて。なんでも教えてくれるし、仕事がすごい。日本語で『さばく』って言うけれど、ああ、これが『さばく』ってことなんだって。大量の注文に間違えずに応えて、気づいたら汚れた食器も片付いている。その傍でささっとまかないを食べている。かっこいい、プロ。なんて言うんでしょうか、仕事の神聖さ? これがそのことなんだ、って思ったんですよ」
一方でユンさんが思ったのは、
「どうしてこんなにもプロなのに、韓国でも日本でも、厨房スタッフの待遇はあまりよくないんだろうって。私が店をやるなら、たった一人のスタッフでもちゃんとした待遇にしたい、って」
開業前から思うことがカリスマなのである。しみじみと、こういう人が増えてくれたら、と思う。
〈ランチの小鉢にはいったヤンニョムチキン。これが吃驚するほど旨い。食感はしっとりしつつ香ばしさもある。タレのコク深さは、今まで食べたどのヤンニョムチキンにも勝ると思う。これでビールがあれば、と思ったが、車なので諦めた〉
韓国料理店での仕事にも徐々に慣れおもしろくなって「もうすこし頑張っていろいろ学ぼう」と思っていた矢先、知人から空き店舗があると声をかけられた。すこし早いかと思ったユンさんだったが、これも縁と店を開いた。2020年、町田市の成瀬に「韓国カフェ ユンの家」はオープンした。だが、20年といえば、あのコロナ禍が始まった年だ。「ユンの家」も、当時の他の飲食店同様、店内での営業の自粛など困難に直面した。
「でも始めたばっかりだったから、動線だって1日の流れだって、わからないことも多いじゃないですか。コロナで本来やろうと思ったことがやれなくなったけれど、その時間にいろんな勉強ができたんですよ」
逆境でもこの前向きさ。この明るさとバイタリティが道を切り開くのだろう。20年の4月の終わりには、テイクアウトのお弁当を買う行列ができていた。流石だ。店は軌道にのった。そして、韓国語教室を開いたり、お店でベトナム人の友人にベトナム料理を振る舞ってもらうイベントを開催したり、ユンさんが夢見た、人が集まる場所としての役割も徐々に浸透していった。ただ3年やって、店の不具合なども目立ってきた。そこで新しい店舗を探したのだが、
「なかなか見つからなかったんですよね。そんな時、お店を贔屓にしてくださった方から連絡があって、その方のやっているカフェをつかわないかって」
それが現在の横浜市青葉区奈良町の店だ。ここでユンさんは、カフェと韓国語教室をおこなっている。ここを中心にして韓国旅行なども企画している。「ユンの家」を中心に、人がつながっている。
店には、こんな張り紙がある。
「ユンの家の営業理念
清潔
親切
家庭の味
人を大切に」
これ、ぜんぶ完全に実行しているじゃないですか、と言ったら、ユンさんが嬉しそうに笑った。もう、通う!週替わりランチ制覇したい!と思った。
かとう・じゃんぷ 文筆家、コの字酒場探検家、ポテトサラダ探求家。インドネシア、東京、横浜、東南アジアで育つ。