ステッキデビュー
岡崎武志
4月半ばのことだが、ステッキを1本買った。古風な丸型取っ手の木製で、アマゾンによる注文だ。1450円なり。これが高いのか安いのかよくわからないが、雨傘を買うのと変わりない価格だから安いのだろう。もちろん柘植や花梨など高級品ならぐっと値は上がるはずだ。言っておくが膝や脚が歩行困難なほど悪いわけではない。きっかけは安西水丸。前回、才人のイラストレーターの著作が、いま古書界から払底し、高価で取引されていると書いた。もともと人気のある書き手が物故すると、波をつかまえた感じで1時期潮目が上る。
『芸術新潮』のバックナンバー(2009年11月号)は「京都千年のタイムカプセル 冷泉家のひみつ」だったが、表紙に「安西水丸さんとゆく南青山裏道さんぽ」と刷られてあって手が伸びた。カラー写真がたくさん入った8ページの記事で、フロントページにはこうある。
「隣町赤坂に生まれ、少年時代は青山通りが通学路。さらには20年以上、青山近辺に仕事場を構えてきたという安西水丸さんに、最新ファッションとも骨董ともひと味違う、“ふだん着”の南青山を教えてもらいました」
散歩道である青山には石段が多い。その石段をバックに安西水丸がポーズを取る。デニム生地ジャケットにチノパン、そして手にはステッキがある。これにしびれた。親しい仲にあった編集者に聞いたら「水丸さんは別に足が悪いわけじゃない。あれはファッションなんですよ」と言う。菊池寛、小林秀雄、横光利1、太宰治など昭和の文士たちの写真を見ると、30代くらいからステッキをついている。あれもファッション。一種のダンディズムの体現であった。永井龍男に「ステッキと文士」という1文がある(『銀座百点』昭和36年)。
銀座について、あれこれ考えているうちに、私は妙なものをふと思い出した。
おそらく、遠い戦前に姿を消してしまったであろう、ステッキのことである。
それも明治大正の官員さんや田紳のひけらかした持ち物ではなく、2、30年前の小説家たちが銀座を散歩する時は、ステッキを必ずと云ってもよいほど愛用していたという記憶である。(中略)着物の好みと同様に、ステッキにそれぞれな好みはあったし、そのこなし方にも個性が感じられるといった具合で、ステッキをたずさえない文士は一流でも一人前でもなかった。当の小説家たちも、そのスタイルに一種超俗の誇りを示したといってよかろう。
実用というより、侍が腰に刀をたばねるように一種の象徴として身につけたか。植草甚一もまた散歩のお供にステッキを携え、途中に線を引き、今日はここまで古本を買わないと帰らないなどと言っていた。私の場合、ステッキを持つことは、植草甚一へのあこがれも含まれている。なお、ステッキをファッションとして収集、愛用する坂崎重盛さん(文筆家)の著作に『ぼくのおかしなおかしなステッキ生活』(求龍堂)がある。ご参考まで。
これら先達のたたずまいを見て、実力不足を承知しながら、私もちょっと真似したくなったのである。
注文してから家に届くまで1週間はかかったか。その間、ちょっとドキドキしていた。本当に届くかしらんと疑ったりして。だからちゃんと届いた時はうれしかった。1450円以上の喜びだ。持つと意外に軽い。中は空洞かもしれない。地面につく先の部分にはゴムのストッパーがはめてある。さあ、そうなると、このステッキを持っていつ外出するかだ。新しい靴を下ろすよりややハードル高し。4月27日にしたのは、ヴェンダース『パーフェクトデイズ』を一緒に見た3人で、今度はジャームッシュ『パターソン』と決めて出かけた日だ。ほかの二人に自慢したい気持ちもあった。
結論からまず言えば、街歩きに関して、これはかなり歩行を助ける有能な道具だった。歩行とステッキをつくタイミングも、最初少しとまどったがすぐ慣れた。カツンカツンと道路や床に軽い音を響かせながら歩くとリズムが生まれる。山登りの際に杖(ストック)を使うことを考えれば、歩行の補助になるのは当然だ。階段の上り下りにも有効。使ってみればわかりますよ。ステッキなしで歩くのと比べて、疲労は1~2割軽減されるのではないか。混んだ電車で立つ時も、吊革に手が届かない場合は立脚する支点が一つ増えるわけだから安心だ。「転ばぬ先の杖」とはよく言ったものだと実感する。
ステッキのことを告げていなかったので、武蔵野館前で集合した時、この日一緒に映画を見る二人は「どうしたんですか? 怪我でもされたんですか」と心配してくれた。いやいや、じつはこういうわけでと遊び半分であることを告げると「またまたぁ」とニヤニヤ笑っていた。この「ニヤニヤ」には(岡崎さんならやりそうなこと)という含みもある。
何人かの知人から同様の反応を受け、「これを持ってたら、電車やバスで席を譲られる」と冗談を付け加えるようになったが、これまで5~6回利用して、実際に電車で席を譲られたのは一度だけ。高齢者なのでありがたく座ったが、やはりまだ実力不足かもしれない。
この日見たジム・ジャームッシュ監督『パターソン』についても触れておこう。映画のタッチやたたずまいが静かで抑制されていて『パーフェクトデイズ』と比べたくなる。ニュージャージー州に実在するパターソンという町に住む、町と同名のパターソン(アダム・ドライバー)は市営バスの運転手。かなり個性的だが美しい妻ローラ(ゴルシフテ・ファラハニ)とイングリッシュ・ブルドッグと一軒家に暮らす。朝、目覚めると傍らの妻を起こすことなく、一人シリアルの朝食を食べ終わると歩いてバス会社へ出勤する。始業までの短い時間に、ノートへ詩を書きつける。それはお気に入りのマッチや愛の詩だ。
昼は名所の大滝が見える公園で弁当を一人で食べ、帰宅すると犬を夜の散歩に連れ出し、行きつけのバーでビールを1杯飲む。ほとんど何も起こらない日常を、ジャームッシュは日記をつけるように映像で綴る。妻と別れがたい男がおもちゃのピストルでバーに乗り込み発砲しようとする。それを取り押さえるのがパターソンで、機敏な格闘術は彼が元兵士で鍛えられたことをうかがわせるぐらいが破調か。
このルーティンと詩を書く行為が映画の主翼だ。寝床で本を読む『パーフェクトデイズ』とは気が合いそうだ。パターソンはこの町出身(じつは同州のRutherford『アメリカ名詩選』詩人小伝による)の詩人ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ(1883~1963)のファン。同じ詩人が好きで日本から訪ねてきた詩人の男性(永瀬正敏)と大滝の見えるベンチで言葉を交わすシーンがある。詩で国籍も出自も違う男二人が心を通いあわせるのだ。
ウィリアムズの詩がパターソンの日々を川のように流れる。妻のローラが「私の好きなあの詩を読んで」とせがんでパターソンが朗読する。それがとてもいい。「This is Just to Say」が原題。亀井俊介・川本皓嗣編『アメリカ名詩選』(岩波文庫)に、「ちょっとひと言」というタイトルで収録(和訳は川本)。
冷蔵庫に/入っていた/すもも/たぶん君が
朝食の/ために/とって置いたのを/失敬した
ごめん/うまかった/実に甘くて/冷たくて
味わいは俳句に近い。「古池や蛙とびこむ水の音」も英訳すればこれぐらいの長さになる。W・C・ウィリアムズについては、思潮社刊の海外詩文庫の『ウィリアムズ詩集』(原成吉訳)が最適かと思うが現在品切れ。映画の影響か、古書価が高騰(だいたい5000円)。とりあえずは岩波文庫で十分。
ステッキと映画の話が長引いた。書いておきたいことを大急ぎで付け足す。
今月、もっとも衝撃を受けた文章は、新潮社のPR誌『波』連載の筒井康隆「90歳で見る幻燈」(2024年5月号)。すでにシリーズ第15回になる。私が読むのはこれが初めて。こんなことが起こっていたなんて……。
今年90歳になる日本SF界の巨匠による外食日記。ほぼ毎夜、愛妻の光子と方々を食べ歩く。驚くのはその豪遊ぶりだ。筒井は東京に家を持つが、神戸にも別宅がある。神戸へ帰った折りの記述が続く。店の名と食事代のみ示せば、3月1日、焼き鳥屋「あかさき」7000円。2日、焼肉店「ふじの」1万4千円。3日「テアトロ・クチーナ」1万7500円。4日「やる気いっしん」8280円。6日「寿司大将」1万8000円。7日、ホテルオークラ「桃花林」2万9650円。8日、日本料理「山里」3万4250円には「ひぇい!」と声がもれるが、筒井にとっては「東京に比べて安い安い」という。このあとも2万、3万、4万と私にすれば高額が腹の中へ消えていく。筒井は前年分の年収が「3000万円」というから、この調子で年間1000万円を夜食代に使っても平気なのかもしれない。しかし、紹介された店はいずれも高級店で、われわれの(すいません私の)懐具合からは大きくはみ出して参考にはならない。これらの美食と蕩尽の報告にいかなる需要があるのか。もちろんもっと上がありますよ、と言えばその通り。その通りだが……。
私は前から気になっていた国分寺市日吉町の「三百圓食堂」へ自転車で出かけてみた。うどんを中心にカレーなど多くのメニューが300円。田舎の食品店みたいな店舗の片隅が食堂になっている。表に貼られたメニューに300円とあった親子丼を注文。しかしなぜかレジで告げられたのは「440円」。税プラスで330円というならわかるが、数メートル移動しただけで100円値上がりしていた。私の体格を見て勝手に大盛り(プラス100円)にされたかと思ったが、出てきた親子丼は肉も卵も申し訳ないとおじぎをしたような盛りだ。食べながらだんだん腹が立ってきたが、300円と400円の違いで声を荒らげるようでは、筒井康隆はどうなるのか。
これが人生修行だよと言い聞かせて(うどんにしておけばよかった)と店を後にした。
300円と思った/親子丼/なぜか400円と言われたよ
でてきた親子丼は/鶏肉も卵も/恥ずかしそうに/身を寄せ合っていた
ごめん/悪かったのは私だ/300円に/何を期待したのか/ばかだったよ
体験をウィリアムズ「ちょっとひと言」ふうにまとめてみました。
おかざき・たけし 1957年大阪生まれ。ライター。著書に『古本大全』『古本道入門』など。