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J. ドローム著『森の鹿と暮らした男』◎松永裕衣子

正真正銘、唯一無二の物語

編集者
松永裕衣子

 人間社会に背を向け、フランス北西部ノルマンディー地方の森で、ノロジカのグループとともに暮らしたひとりの男性。遠い昔の話ではない、現代の話だ。

 19歳の春、ドロームはカメラを持ちリュックサックを背負って、身一つで森に入る。それから7年もの間、森の動物たちの生き方に学びながら、少しずつ彼らの生活に溶けこんでゆく。シカと同じように葉っぱを食べ、こまめに短い睡眠をとりながら。

 屋根もなく、寒さを防ぐ術もほとんどないなかで、どうしてそのようなことが可能だったのか。若さゆえだろうか。慣れない野生の暮らしで命の危険を感じることはなかったのか。何より、用心深いはずの野生のシカたちと、ここまで心を通わせることができたのはなぜか。本書で語られる内容は、本当に不思議なことばかりだ。

 森のなかに家を建てて住むことと、シカと同じように森で暮らすこととは、まったく意味合いが違う。前者は、いくら森の動物たちと親しくなっても、人は闖入者にすぎず、両者の間には越えがたい壁がある。けれどもこの本は……。

 森のシカと暮らした男、原題は『鹿男』。本書の帯には、1頭の小柄なシカのそばにしゃがみ、その背に腕を回しながら何かをつぶやいているような青年の姿がある。シカは落ち着いた様子でこちらを見つめている。解説者でシカの専門家である高槻博士は「これまで読んだ類のない本だった」と言い、訳者の岡本さんは、「過去にも未来にも類書はないだろうと思って訳しました」と語る。それほど、この本で描かれるのは特異な世界だといってよい。

 ドロームはシカの習性にくわしい。まず、彼らがいやがることはしない。どう距離を縮めたらよいか、シカたちがどのように意思疎通をするかも知っている。こうした知識は書物からではなく、経験から自然に得たものであろうが、彼が迷わず進んでゆけたのは、強い意志の力だけによるものではない。何か常ならぬ力に導かれたためと思えてならない。たとえ似たようなチャンスが再び巡ってきたとしても、同じことは2度と起こりえないだろう。

 シェヴィと名づけた若い雄ジカとの間には、唯一無二の関係が築かれようとしていた。「もはや私はシェヴィの日常の一部で、一緒に遊んだり、隣を歩いたり、並んでキイチゴを食べたりするようになった」。一緒にいると、自分もノロジカになったような錯覚を抱く、とも述べている。シカと人とが心を通わせてゆく場面の描写はとりわけ素晴らしく、大きく見開きで収められた森の生きものたちの写真も、彼にしか撮影できない貴重なものだ。

 7年後に彼が森を出たのは、友人であるノロジカたちを守るためだった。彼らの生活が脅かされている今、代弁者として人間社会に戻ってきた。本書を読むと、私たちがふだんメディアで目にする野生動物の姿が、実は一面的なものにすぎないことがよくわかる。シカたちの豊かな世界と森の危機を伝えるこの物語は、異次元の視点の獲得を促している。

ジョフロワ・ドローム著
岡本由香子訳
高槻成紀解説
エクスナレッジ
1,800円

松永裕衣子

まつなが・ゆいこ 編集者

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